2004年10月31日日曜日

戦国無双やってみた

猛将伝じゃなく、普通の戦国無双を持っているわけですが、未だ信長が使えません。
信長がやりたくて買ったのになぁ。
信長を使えるようにするには、濃姫と、お市と、孫市の章をクリアしなくちゃいけないわけですが、濃姫を使えるようにするには蘭丸を終わらせなくちゃいけなくて、蘭丸を使うには光秀を終わらせなくちゃいけない……って訳です。
お市は最初から使えるし、孫市はどれでもいいから章をクリアすればいいんですけど……。

というわけで、ようやく濃姫の実機エンディングの方が終わりました(別のビジュアルでキャラを使えるようになるエンディングです)。
普通のエンディングの方は、別に終わらせなくてもいいので(どちらか片方でいい)、次はお市かな?
孫市の顔がジョン・トラボルタに見えて、結構お気に入りなんだけど、けん玉で戦う子供っぽいお市が、面白そうなので。
史実ではそういう面は全くない、戦国の世に振り回されつつ、その中で武家の娘として自分の役割をわきまえていた女性ってイメージなので……。
とは言え、濃姫はやり込みたい気もしますが。
でも、濃姫と信長の絡みが、えらく大人モードなので、ちょっと子供の前ではやりにくくて、子供たちが寝てからしかできませんでした(まぁ、昼間は風邪引いてない息子その1が真田幸村とか武田信玄で遊んでるんですけどね)
そんなにキスばっかりするなよ〜って感じ?
おまけにそれが、もう、何と言うか、エロいので……。
いや、個人的にはそういうエロい信長と濃姫っていうのも好きですけどね。
しかし、通常のエンディングだと、濃姫は途中で「他人に殺させるくらいなら、自分で殺す」みたいな感じで、信長と敵対するらしいから、その解釈の方のストーリーも見てみたい(途中で分岐するんですが、通常エンディングの方に分岐するミッションが成功しないんだよね)
それに、能力値はMAXになったけど、覚えた技とかがまだコンプしてないので、お市をする前にそれらを終わらせるか、後でゆっくりするかは悩みどころです。

しかし、光秀が白い羽で、信長が黒い羽っていうのが、魔王とそれに叛旗を翻す者らしくていいかも。
ただ、光秀が理想論者だったかどうかっていう意味では、ちょっと疑問ですが……。
個人的には、このゲームをする前から、濃姫というか「信長公御台--帰蝶--」ってオリジナルの短編連作を書きはじめていたので(うまくかけたら短編のうちどれかを公募に出してみたいです)、信長公記とか武功夜話とかその他諸々の文献を調べていたので(リアルな意味での帰蝶の生涯に興味があるので)、光秀が文化人としての自負と先例や慣習やその当時の決まりきった常識しか見えなかったという意味で、信長の風下に立つということを度しがたかったのと、イエズス会の陰謀にのせられたのではないかと思っているんですけどね。
蘭丸との関わりも、それほど実際にはなかった感じだし。
あんなゲームの中で描かれた関係があるとは思えない。
まぁ、ゲームだし、面白いけどね。

しかし、光秀にしても信長にしても、とっても洋風な鎧を身に付けてまして、きっとミスリル製なのねなんて思うのは、FF XIの影響か?

2004年6月30日水曜日

アズカバンの囚人

ハリポタ映画第3段!!
2歳の息子その2をつれて観てきました。


平日昼間の初回。
学校も会社もある時間なので、人は少ないだろうと高をくくっていたのですが、多かったです。
大学生くらいかなぁというオネイぃさんと、年配女性ばっかり。
ちらほら男性もいましたが、ちょっと不思議な感じでした。
字幕版だったせいか子連れは私だけ。
「うるさくするんじゃないのぉ〜?」という視線が痛かったです。(苦笑)
もっとも、予告が始まってからスクリーンに釘付けの息子その2はおとなしいものでしたが……(それに後半は眠ってたしね)

まずはセオリーどおりダーズリー家でのシーンから。
ハリーが想像以上に成長してましたね。
まぁ、日本人の13歳も、結構成長する子はするから、驚くほどではないのかもしれませんが……。
テントのようにシーツをかぶってというのは原作にもあった表現だけど、あそこまで本当にテントみたいに膨らましてあるのはなんでだ?
しかし、眼鏡かけたまま寝たふりしてるハリーに、どうしてバーノンおじさんは気が付かないのでしょう?(あ、突っ込んじゃ駄目?(爆笑))
それから、風船のように膨らんでいくマージおばさんが、すごくおかしかったけど、ペチュニアおばさんが飛んでいくマージおばさんに向かって手を振ってるのが、妙におかしかったです。
所謂ここにも、嫁と小姑の関係というのがあるのでしょうか?
ダドリーは、「賢者の石」で豚のしっぽをはやされたのとは違う意味で、気の毒でした。
弾け飛んだマージおばさんの上着のボタンが、額を2連続で直撃。
あれは、痛い。
でも、なにげにダドリー役の男の子は、演技がうまいよね。
しかし、ハリーってば、ダーズリー家を飛び出すのはともかく、荷造りするの早すぎ。
もちろんそれほど多くの荷物がないにしても……。
個人的には、原作以上に映画では、ダーズリー夫妻はハリーに対して、愛情があるような表現が見受けられると思っていたのですが(もちろん屈折してると思うしあからさまじゃないけど)、今回もそうでしたね。
確かに虐げてはいるけれど、何のかんのといって飛び出そうとするハリーを引き止めようとはするし、退学をある意味心配している。
もちろん、児童文学であるわけで、ダーズリー夫妻の描写というのは原作では子供視点からのそれになるので、愛情云々は感じられないけれど、映像化した時に、原作者との綿密な打ち合わせの上であの描写なら、きっと何らかの意味があるんだろうなと思います。
「賢者の石」も「秘密の部屋」でもそうだった気がするもの。
しかし、飛び出した後のハリーの前に現れる黒犬。
あれって、原作読んでないと訳分からないでしょうね。
でも、キュアロン監督は、公園の遊具の何気ない動きで無気味さをうまく表現してるなぁって思いました。
しかし、ナイトバスが走るシーンは豪快でしたねぇ。
魔法世界のバスらしく不思議がいっぱい。
漏れ鍋でのファッジとのシーンは、原作のイメージよりファッジが少し高慢な感じがして、個人的には疑問点が残りました。
あ、そうそう、部屋を出る時ハリーがヘドウィグを呼ぶシーンは、何気ないけどかっこうよかったな。
そして、いきなり喧嘩してるロンとハーマイオニー!!
この二人はこうじゃなくっちゃって感じで、微笑ましい。
所謂初恋の初々しさってやつですか?
ただ、やっぱり稚戯に等しいのだなぁと思うのは、穿ち過ぎでしょうか?
それから、エジプトへ行ったときの記念写真をじっくり見たかったなぁ。
Coolなビル兄さんが見たかったです。
ほかにはアーサー・ウィーズリー氏の心遣いとそのシーンで効果的に使われてるシリウスの指名手配ポスターが印象に残りました。
それから、決定的に日本と違うんだなぁと思ったのは、夏であるはずの新学期直前に、セーターをしっかり着込んでいる登場人物たち。
そうかぁ、日本みたいに暑くないんだね。

ホグワーツ特急の中でのディメンターのシーンはおどろおどろしかったですねぇ。
あと、ハーマイオニーがルーピン先生の名前を見つけるの、めちゃ早すぎなんですけど。
あ、そうそう、ルーピン先生はかなり好み〜。

新しいダンブルドア校長は、以前の故ハリス氏よりはお茶目な感じで、原作により近い気がしました。
ガンダルフにしか見えなかったらどうしようって思ってたけど、そんな感じなかったし(当たり前か、プロの俳優だもんね)。
カエルの合唱団も面白かったなぁ。
制服も前2作から、微妙に変わってて、より格好よくなってた気がします。

トレローニー先生、最高です。
さすがエマ・トンプソン!!
衣装も自身でプレゼンテーションしたとか。
あの、絶対に見えてなさそうな眼鏡が、実は時には見えざるものを見ちゃうんだって象徴のような気がして、最高です。
ハーマイオニーがトレローニー先生の口まねしているところが、地味だけどかわいかったです。
そういえば、今回の学校内の描写はたて移動が多いですね。
1&2作はたて移動というと階段のシーンくらいでしたけど、3作目はハグリットの小屋へ行ったり、その他のシーンでも、段差が多用されてたなぁと思いました。

ハグリットの初授業では、マルフォイがハリーをからかうシーンが、何と言うか、ある意味情けなさ倍増でした。
マルフォイは、そういう情けないライバルじゃなく、底意地の悪いライバルであってほしいですね。
実際問題、マルフォイ自身が父親のいうことを全て正しいと思っているかどうかは、4巻などを読んでもちょっと疑問ですが、ハリーに対するライバル意識はマルフォイ自身の感情だと思うので。
あ、そうそう、ハーマイオニーがロンの手を思わず握ってしまる例のシーンは、ここでした。
おぉ、かわいいねぇ、初々しいねぇ、ロンハーだねぇって感じでしょうか?(私はロンハーもハリハーもどっちも好きです)
特に、ロンの表情がいいねぇ。
ハーマイオニーよりも、やっぱりロンの方が先に意識してるんだろうなぁ。
というか、3人の中の女1人(以前のドリカム状態ってやつですね)としては、関係が崩れるっていうのが分かりますから、そうそう感情のままに……ってわけにはいかないだろうなぁって気がします。
ロンに対しての想いも、ハリーに対しての想いも、微妙に違ってるけど、多くの部分で重なっててっていう、モザイク状態なんだろうなぁって……。
むしろ原作的な描写で、ネビルに優しくする方が、クラムとダンスする方が、ハーマイオニーにとっては単純なんでしょうね。
あ、そういえば、ネビル役の子が痩せて背がのびてて、最初誰か分からなかったよ(でもこのキャストが続くなら、5巻的にはいい感じ)

次にルーピン先生の授業。
できればもう少し時間を取ってじっくり描写してほしかったなぁ。
ハリーをあそこまであからさまに邪魔するのも……ちょっと不自然な感じ。
原作では、かなり分かりにくく邪魔したように書かれてた気がするもの。
でも、ルーピン先生が蓄音機で軽快な音楽をかけて実践させるのは、すごく飄々とした感じが出てて良かった。
ルーピン先生に惚れました。
ロンの恐いものの蜘蛛が、脚がなくなるんじゃなくて、ローラースケートをはいてるっていうのが、原作より面白かったな。
そうそう、ルーピン先生の恐いものが満月っていうのは、原作的には分かりにくく書かれてたけど、映像的には分かりやすかったね。
そして、何より、スネイプ先生。
ネビルの想像の産物という設定だけど、最高におかしかったです。
アラン・リックマンに同情。(笑)
ハーマイオニーの髪アップはかわいかったなぁ。
4巻のユールボールまで、そんなシーンは出てこないかと思ってたから、思わずドキドキしちゃったよ。
そういえば、トレローニー先生やハグリットの授業でも思ったけど、ロンがハーマイオニーの突然の出現に驚くので、タイムターナーの不思議を説明してたのが良かったね。

ホグズミードにいけなくて切ない表情のハリーと、さらに切なそうに振り返りつつロンといってしまうハーマイオニー。
あぁ、何というかトライアングルが崩れるっていうのは、1人女の子のハーマイオニーの方が辛いんだろうな。
もちろん、「行けない」ってことに対するハリーのやるせなさも分かります。
でも、ルーピン先生とゆっくり両親のことについて話せるのだから、貴重な時間だった気もします。
両親の思い出がないハリーにとっては、本当に貴重な時間なのでしょうね。
でも、スネイプ先生が薬を調合してあげているのをハリーが知るシーンがないのが、ちょっと残念でした。

それから、太った婦人が切り裂かれたシーンで、今回は出番を割愛されてしまったカドガン卿が後ろの絵の中で自己主張してたのが、原作派のにやりとした笑いを誘いましたね。

クイディッチのシーンは、ユニフォームが格好よくなってて、雨に濡れて文字どおり水も滴るいい男になってるハリーが良かったけど、短かったのが残念。
しかし、気を失ったハリーが気がついた時に、ハーマイオニーがまたしても一番そばに寄り添っているのは、ハリハー派に対するサービスなのか、キュアロン監督!!
まぁ、あまりにも自然な二人の動作が、友達同士というより、君らは長年連れ添った夫婦か?って気にさせて、ちょっと個人的に、ロンハーの初々しさと対照的に、老成された何かを感じちゃって複雑な気持ちになってしまいましたよ。

で、またしてもホグズミートですが、フレッド&ジョージ!!
君ら双子は最高だ。
前2作では双子らしい掛け合いが余りなかったのが、結構不満でしたが、今回の忍びの地図を渡すシーンは理想どおりでした。
あと、アズカバンの中では、一番ロンハー的に萌えシーンがありましたね。
まるで初めてのデートのような初々しい二人の会話に、こっちが恥ずかしくなってきちゃったよ〜。
でも、いきなりとってつけたようにあのシーンになるのは、勘弁でした。
もう少し自然な流れにできないんですかねぇ。
カットされたシーンとかあるのかなぁ?
未公開シーンを加えてDVD発売とかしてくれたらいいのになぁと思ったほどに、不自然でした。
おいしいシーンだっただけに……。
で、そのすぐ後のハリーがシリウスの(一般的に知られている)罪状を知って、透明マントに隠れて泣くシーン。
こっちのハリハーシーンは、あまりに自然すぎて……。
よけいに双方のシーンが対比されて際立っちゃいましたよ、いい方にと悪い方に。
でも、確かにあの、ハーマイオニーがハリーの透明マントをそっととるシーンは、感動的でしたからねぇ。
引こうとするロン、近付いて寄り添おうとするハーマイオニー、それぞれのハリーに対する友情もよく示されてましたね。
男と女の違いもあるのかもと思いました。
あ、そういえばこのシーンですよね、ハリーのズボンの裾をハーマイオニーがつかんでいるフォトは。
映画の中では、その描写がなかったのが残念。
ただ、フォトとは言えあの描写は、少なくとも友情だけでは難しい表現ですね。

ルーピン先生との「エクスペクト・パトローナム」の御勉強は、ちょっと簡単に会得しちゃい過ぎでは?
まぁ、ハリーは才能はあるってことになってるみたいだけど、原作ではもう少し苦労してたのになぁ。
ただ、両親のことを語るハリーの想いっていうのが、すごく伝わってくるシーンで、そういう切なさがキュアロン監督は得意なのねと思いました。

ロンの寝言は、面白かったですけど、ハリークールすぎ。
もう少しいたわってあげればいいのに。
それとも、しょっちゅうなのか?
そして、ピーターが忍びの地図に現れ抜け出すハリー。
スネイプ先生相変わらずいじわるでいいわぁ。
ルーピン先生の注意というか、ハリーの浅はかさを叱るシーンは、やはり感動しました。
父親みたいな存在って、ハリーにはいないわけだし(バーノンおじさんは、きっと愛情はあるんだろうけど屈折してて父親代わりにはならないし)、ある意味叱られてもハリーにとっては幸せな瞬間だと思いましたよ。

そして、バックビークの死刑シーン。
いや、その前にハーマイオニーがマルフォイをグーで殴るのだったわ。
漢だわよね。
誰よりもハンサムだったわ、ハーマイオニー。
そして、問題のロンハーシーン。
ロンに抱きつくハーマイオニー、それに寄り添って後ろから抱きしめるハリー。
なのに、なのに、なんでロンはこんないいシーンでネズミなんかしっかり抱えてるんだよぉ〜!!
おまけに逃げ出したネズミを追いかけていっちゃうし。
ネズミなんか放っといてハーマイオニーをだな、こう、がしっと抱きしめてやるくらいのことしろよぉ〜!!
何と言うか、本当におまえはハーマイオニーのことが好きなのかと、小一時間……。
女はなぁ、こういう細かいところのフォローで気持ちが揺れ動くんだぞ!!
でも、ハリーも、ハーマイオニーを抱きしめる……って描写のはずなのに、ロンに甘えて見えるのは、どうしたことか。
かなり不可解なシーンではありました。
そして、犬に柳の下に引きずり込まれるロン。
それを追いかけて手に手をとって走るハリーとハーマイオニー。
いや、手を繋ぐよりも別々に柳に向かえよと思ったのは私だけではないはず。
効率悪いぞ!!
キュアロン監督がどういう意図でこういう描写にしたのか、想像の域を出ませんが、友情だけでそうするのは、不自然ですよ。
日本ではね、同性同士だったり、幼い異性同士でも手を繋ぐことは多々ありますけど、欧米ではあまりそういうことはしないだけに、よけいに疑問符が飛び交ったのでした。
あと、暴れ柳暴れ過ぎ。
あんなに容赦なく太い枝が衝突したら、へたすりゃ内臓破裂……。
おまけに、ハリーときたら眼鏡探して情けないし……(お前はヤッさんかと突っ込みを心の中で入れたのは、私だけじゃないと思われ……)。
そして、やっぱり漢なハーマイオニー。
ハリーの胸ぐらつかんで柳の下の穴にほおりこみます。
すげ〜、なんて力持ち。
日頃重たい教科書を詰め込んだ鞄で鍛えているのね。(違うって)
で、ハリーの背中の上に転がり落ちるハーマイオニー……。
いやん、ここってもろハリハーだわ。
そして、またしても手を繋いで階段をあがってく二人。
いや、だから、手を繋がないでですね、杖でも手に慎重にのぼっていった方が、魔法使いと魔女的にはいいのではないですか?

そして、シリウス登場!!
ここのシーンの見せ方は、キュアロン監督の真骨頂ですね。
うまかった。
で、恐い恐いシリウスとハリーの間にハーマイオニーが立ちはだかるのです。
usじゃなくてmeと言ってほしかったけどね、ここは、やっぱり(と、段々ロンハーモードからハリハーモードにシフトしていってる私。どっちも好きだとこういう時お得よね)。
おまけに、大好きなルーピン先生は登場しちゃいますし。
原作知らない人は、ルーピン先生が敵かと思っちゃうよね。
何せシリウスと抱き合って男同士の友情確かめあっちゃうし。
でも、原作知ってる私は、「キャァ〜、ルーピン先生格好いいわぁ」とかミーハーなことばかり考えてたりして……。(爆笑)
そして、さらにさらにスネイプ先生登場(なにげにスネイプ先生好きなんです)
スネイプ先生過去の怨念が!!
こういう粘着質な演技、妙にはまってるから恐いわぁ、アランさん。
と、ここで、ハリハーモードに移行しちゃってた私の心を鷲掴みのシーンが!!
ハリーがハーマイオニーの反対側の腰に手をのばして杖取ってるよ〜!!
で、ピーターも正体を現し、シリウスとルーピン先生が追いつめていくシーンが、めちゃめちゃ萌えた。
え、なんでかって?
いや、だって、何かね、長年あってなくて、気持ち的なしこりもあったけど、それが解消したらすぐに息の合った過去に戻れる二人、そして、その仲間だったはずの裏切り者と、既にこの世の人ではなくなっているもう1人の親友。
そういうなんともいえない親世代の関係がね、SS書きとしては刺激されたってことですわ(でも書かないけど)

で、柳の下からゾロゾロとはい出してくるみんな。
ここでまた唐突にロンハーシーン。
いや、だからね、キュアロンさん、ロンハーシーンはもっと自然に入れてよ。
どうしてこう、毎回毎回唐突にとってつけたように入れるのよ。
ロンハー萌えの気持ちがそがれちゃうのよ。
ロンハーもハリハーもどっちも楽しみたいのにさ。
一粒で2度おいしいにならないじゃん。
あ、でも、何のかんのと言って、最後はいつも身体を張ってハリーを庇うスネイプ先生は、最高ですわ。
そして、ディメンターにやられそうになって倒れるシリウスとハリー。
で、パトローナスが現れるわけですが、牡鹿の形をとっていることの説明は結局出てこなくて、原作読んでない人には父親の想いがさっぱり分からないじゃない。
不満だぁ〜!!

そして、またもハーマイオニーの声で目が覚めるハリー。
お前は眠り姫か!!って位よく気絶するね。
まぁ、そういう話なんですけど。
で、タイムターナーのシーンですけど、ハーマイオニー、ロンにそんな冷たい言い方しなくても……。
そういえば、マルフォイのこと殴るハーマイオニーを見る二人(ややこしいな)の会話が笑えた。
なにせ、「Good punch」ですから。
しかし、やっぱり魔女ってすごいよね。
ハグリットがおいておいた餌の小動物の死体をものともせず首にかけ、ムンズと持ってバックビークの気を引こうとするんだから。
あ、そういえば、非常時でもおじぎを忘れないハリーが素敵でしたわ。

そして、そして、巷で氾濫しまくったあのフォトのシーンがやって参りましたよ。
ルーピン先生の狼男に襲われそうになってハーマイオニーがハリーの腕にしがみつき、ハリーが庇うようにハーマイオニーを抱きしめちゃうっていう、あのシーンですよ。
実際に動く映像で見ると、いや、本当にハリーがハーマイオニーを庇ってるんだね。
おまけに、バックビークが助けてくれた後にハーマイオニーが「怖かったわ」って!!
そんなシーン聞いてないぞ!!
なんだか、もう、すごく不思議な感覚に捕われちゃいました。
こう、原作的には3巻ってロンハーなんですよね。
これは間違いない。
ただ、何と言うか、ハリーそのものがハーマイオニーに取り立てて異性としての感情を見せないからっていう要素がかなり大きい気がするんですよ。
つまり、ロンの方がストレートに見せてる分、ハーマイオニーも反応するって感じで……。
さっきも書いたけど、ハーマイオニーそのものの感情は結構単純ではなく、ハリーへの想いとか、ロンへの想いとかは微妙にぶれて重なってたり重なってなかったりしてるんだと思うんですよね(まぁ、どちらにしろまだ幼いし)。
どちらか一方だけ恋愛対象としてみてるというよりも、あえて見ないようにしてるけど意識はそれぞれに対してしちゃう……みたいな……。
少なくともトライアングルが壊れるかもしれない感情はセーブしている気がする。
ただね、映像化されてこうまで見せられるとさ、原作者がいうように映像でしか見せれない見せ方としての伏線というものを考えちゃうんですよね。
さらに、4巻5巻も読んでる私としては、ハリーの初恋、つまり子供としてのレッスン1の対象をハーマイオニーじゃない女の子に持ってきて、5巻のハーマイオニーの行動、ハリーの反応、そして終わり方を見てると、4巻までを読んで思ってた最後とは違うんじゃないかなぁって……。
ハリーがヴォルデモートから助かったのは、母親の愛ゆえにだということは既に判明していますよね。
だとしたら、最終決戦でそれを上回るのは、肉親ではなく他人からのより大きな愛によると考えられるでしょ?
多分、それは、赤ん坊が一方的に享受する母親の無償の愛じゃなく、いろいろな困難を乗り越えて互いに与えあう愛情であるはずのように思えるんですよ。
だとしたら、既に7巻中5巻まで発売になっていて(日本語版は4巻だけど)、その対象となりうる異性って、ハリーにとってはハーマイオニーしか残ってない状態……(5巻で登場したあのことか、6巻で新たに登場する女の子がいるかも……ってことは、考えにくいし)。
もちろん、現時点ではロンハーであることはおかしくないけれど……。
ただ、ロンの想いはある意味かなり明確に描かれているけれど、ハーマイオニーのロンへの反応も描かれているけれど、ハリーのハーマイオニーへの想い、そして、ハーマイオニーのハリーへの反応は、書かれることをすごく避けてこられている気がして仕方がない(だからこそ、私は読むことはできても、自分ではカプモノは想像できないんだけど……)。
なんだかなぁ、どうなるんだろう、最後。
ハリーが死ぬっていうことにならない限り、ロンハーで本当に終わってくれる気がしなくなってきた今日この頃……。
何となく、最終的にはハリハーで終わる予感がしてきちゃったよ。
いや、個人的にはネビル×ハーマイオニーでも可だったりしますが、みんなが幸せでありさえすれば。
まぁいいや、とにかく、これは少なくとも6巻が出版されないとみえてこない部分もあるだろうし……。
で、映画の話に戻りますが、父親に会えることを期待するハリーですけど、結局自分が呪文を唱えるわけですよね。
それがさっきの牡鹿のあのシーン。
牡鹿が何を指し示すのかもっと明確になってれば、最大の盛り上がりのはずなのになぁ。
で、無事シリウスを助け出す……と。
しかし、やっぱりシリウスが最後にハーマイオニーに「君は偉大な魔女だ(台詞あってるよね?)」っていうのは、意味深ですわ、これから先を思うと。
少なくとも、シリウスは偉大な魔女であるリリーを見て知っている人な訳だから。
でも、ハリーはつかの間とは言え、名付け親である、父親にも思えるシリウスとの絆を紡ぐことができて、本当に良かったです。
キリスト教でいうところの名付け親、Godfatherは実の親と同じほどのつながりを意味する相手ですからね。
あとさ、何でタイムターナーのこと、ロンには内緒なのさ。(苦笑)
二人だけのヒ・ミ・ツって奴?(爆笑)

ルーピン先生が出ていくところは、かな〜り切なかったです。
また再登場の折には、同じ役者さんで登場してほしいです。

最後にファイアボルトが出てくるのと、ホグズミードの許可証が出てこないのと、ピッグも出てこないのは、残念でした。
でも、まぁ、ハリーとハーマイオニーがバックビークの羽で二人だけで納得するシーンは萌えたので、良しとするかって感じですね(何様のつもり!!って怒りの声が……)

2004年3月10日水曜日

INNOCENCE、それは……いのち?

「INNOCENCE」観てきました。
レディースデイの初回だったせいか、女性一人で……という方が結構いた。
カップルは残念ながらおらず、男性一人とか男性の二人連れとかはいましたね。
女性が複数で……というのは、さすがにいなかった。


��00人も入れば一杯のミニシアターだったんだけど、半分くらいは埋まってたかな?
多分、公開後初めてのレディースデイだったからに違いない。
話しの内容は、原作漫画の1巻「ROBOT RONDO」と「PHANTOM FUND」を合わせたような話から草薙素子をレギュラーから外してバトーとトグサのバディ(相棒)モノにしたような感じ。
まぁ、話の造りはきわめて単純。
表層部に関していえば、難しくも何ともない。
言い回しがこ難しい台詞がたくさんあるのは、押井監督お得意の演出というか目くらましだから、分からなきゃそのまま聞き流していけばいい。
ただ、攻殻機動隊特有のハッキングとかインナースペースの描写になると、慣れていないと戸惑うかもしれないけど、それでもかなり分かりやすく描かれていたとは思う。
話題になっている映像の美しさは、PRODUCTION I.Gなんだから、ある程度当たり前と思って観にいったけど、確かにすばらしかったし、できれば映画館の大スクリーンで観た方がいいと思う。
まぁ、自宅にホームシアター完備の方はそれで観るのも有りかもね。
あと、音楽は、川井憲次氏なので、押井ファンとしてはパトレイバーの頃からお馴染みだし、よりバージョンアップしていて、こちらもやはり映画館なりホームシアターなりの音響のいいところで耳にするのがいいと思いますね。
特にコーラスの厚みは、音響に左右されると思うし。

で、まぁ、表面的な感想はこのくらいにして……。
面白かったか?と問われれば、面白かったと答えますが、万人に受ける面白さではないような気がします。
特に攻殻機動隊に対してある程度前知識がある……というか、原作を知ってたり前作を知っていたりするならば尚の事……。
個人的には球体関節人形というものは嫌いじゃありません。
いや、人形全般嫌いじゃないんですけどね(フィギュアも含めて)。
でも、何と言うか、球体関節人形って独特でしょ?
ベルメールの人形を奇麗かと問われて奇麗だと答えれる人は少なくないと思うんですよね。
私自身奇麗とは……言いがたい。
けれど、奇麗だから好きになる訳でも引かれる訳でもないところが不思議なところで、ベルメールの人形の写真集など観ていると、心引かれるのも事実。
グロテスクとも思わないけれど、シュールだなとは思う訳で、そのシュールさを内包したものが全編に渡ってテーマのように出てくるというのが、奇妙さを引き立てる訳だし……。
映画の面白さが、それも多分テーマとして用意されているものの面白さが(実際、今回のテーマって押井監督が、分かりやすさという為に用意したものであって、別にそれをテーマだと思わなければ思わないで済むような話しという気もしなくはない)、万人に受けないだろうなと思うのは、やはりそういうものが前面に押し出されているからなのかなぁと、ほのかに思ったり……。
ただ、ハダリというセクサロイド……つまり、人間の性的欲望の為の愛玩用ガイノイドという意味合いの人形を表現するのに、そしてそこに埋め込まれたGHOSTのオリジナルである人間との対比として表現するのに、球体関節人形という形態はいいと思うのだけど、GHOSTを残してほぼ全身義体化されたバトー、電脳以外は生身のトグサ、義体も電脳も捨てて電子の海の中でPUPPET MASTER(人形使い)と融合する為にダイブした素子との対比という面ではどうなんだろう?
特にバトーとの……。
もちろん、球体関節人形という形は人工皮膚で覆われる前の形である訳で、その素の状態のガイノイドは、通常、(INOCENCEの世界の中では)人目にさらされる訳ではないのでしょうけどね……。
でも、映画を観ている人間には常に晒されている。
その矛盾。
人間である事の意味、人形に限定される事の意味が、GHOSTを持っているかいないかならば、今回のハダリはどちらになるのでしょうか?
GHOSTがオリジナルかコピーかによって違いがあるのか?
それとも脳と脊髄をオリジナルとして保持している事のみが人間なのか……。
もしそこだけが問題ならば、ハダリは人形、バトーは人間。
けれど、それらを捨ててデータという形に姿を変えた素子は何なんでしょう?
そして……、素子が入り込んだハダリとそれ以外のハダリの違い……。
全てが曖昧で境界がないはずなんだけれど、厳然たる境界を引こうとするのは防衛本能みたいなものなんでしょうか?
こんな風に突き詰めて考えていく事は、INNOCENCEではかなりの部分受け手にゆだねられている気がします。
多分、押井監督は押井監督なりの表現として描いているし彼の中には彼自身の答えがあるのだろうけど、それは誰かと答えを共有化する事じゃないのかもしれない。
攻殻機動隊の中で描き続けられる電脳化による情報の外部記憶化……。
その外部記憶そのものを社会といってもいいのだろうけれど、それは情報のグローバルな共有化である訳で、それとは全く反対方向にこの映画そのものの答えの非共有化があるんじゃないかなと思いました。
もちろん、攻殻機動隊の中で描かれる電脳を核とした外部記憶化というのは行き着く先までいったものであるのでしょうけど、今現在のリアルに生活している私たちだって、インターネットや携帯やテレビやラジオ……そんなもので情報の外部記憶化している訳で、そういうものに対するスタンスによっても、この映画に対する自分の中の答えが変わってくるのかもしれないという気もします。
そういう意味で、この映画の面白さは人それぞれだし、全く面白いと感じられない人がいても、あまりにも当然だろうなと思います。
もちろん、突き詰めて考えないで、映像美と音楽と表面上のストーリーだけを楽しむという楽しみ方ならば、おしなべて面白いかもしれませんけど。
個人的に私は、アニメの攻殻機動隊では(映画とテレビどちらも)、原作と違い「性的」なモノをメインキャスト以外のところでしか表現していない事に対する不満というのが根底にあるのですが、今回は「性的」なものではないけれど、官能というものは受け手によっては感じるかもしれないですね。
バトーと犬との関わり、素子との関係、素子の入り込んだハダリ……。
そういうものから仄かに立ちのぼってくるものを、官能と理解しうるなら……。
でも、個人的には原作の電脳FUCK(脳内SEXと言ってもいいけど、原作者が電脳FUCKって書いてるからそう書きます)とその触媒としての素子(の副業)みたいな表現は有りだと思うんですけどね。
ただ、そうなるとテレビではちょっと無理なのかもしれませんが……。
でも、COOLなだけの素子は格好はいいけれど、PUPPET MASTERと融合してしまう理由付けが希薄になる気がします。
男性の場合は自分が女なので分かりませんが、女性としていうならば、電脳FUCKが女性の場合同性間でおこなわれるというのは、当然と思います。
異性と肌を合わせる事で感じるぬくもりとか、生殖という子づくりの意味合いでならば異性は必要だと思うんだけど、潔く快感を得る為だけなら電脳FUCKまで行き着かないでも、快感を司るイメージだけで全然OKだし、攻殻機動隊原作の設定のように体感触媒としての素子のような存在がある方が、より質の高い快感んが得られるという設定であるならば、同じ身体的特徴を持っている同性間でおこなわれるのは当然である訳ですしね。
そういうものを受け入れていて、更に異性の大人の関係である彼氏(バトーじゃないよ)もいる素子だからこそ、プログラムの隙間に概念としてのみ存在するPUPPET MASTERと融合できるのだと、私は思うんです。
もちろん前作の「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」での素子の描き方とPUPPET MASTERとの融合は不自然ではなかったけれど、それをふまえてだとするならば「INNOCENCE」において、セクサロイドに入り込んでまでバトーを助ける為にやってくるという絆の強さというのは、ありなのかもしれません。
しかし、私は、そこが納得し難いものだったりもするのですけどね。
納得できる要素は分かる。
けれど、うまく自分の中で消化できない……。
原作の素子のイメージに引きずられているだけなのかもしれないけれど、前作が不自然ではなかったけどそこにいたるまでの過程が薄いから、反対に今作でバトーとの絆の深さを示された時に、脳内補完しうるのだと思う。
けれど、だからこそその脳内補完そのものに納得できない思いを抱くのだとも思う。

でも、色々考えたけど、結局はこの映画は、深く考えようとした場合、自分自身のインナースペースに帰結するんでしょうね……。
しかし、攻殻機動隊なりINNOCENCEなりが海外で受ける訳がよく分かるよ。
だって、キリスト教だったりイスラムだったりという社会全体に根付いている宗教観から無縁の土地でしか作れない話だもんね。

そういえば、相変わらずフチコマ(テレビシリーズではタチコマ)は出てこなかったな。