2004年3月10日水曜日

INNOCENCE、それは……いのち?

「INNOCENCE」観てきました。
レディースデイの初回だったせいか、女性一人で……という方が結構いた。
カップルは残念ながらおらず、男性一人とか男性の二人連れとかはいましたね。
女性が複数で……というのは、さすがにいなかった。


��00人も入れば一杯のミニシアターだったんだけど、半分くらいは埋まってたかな?
多分、公開後初めてのレディースデイだったからに違いない。
話しの内容は、原作漫画の1巻「ROBOT RONDO」と「PHANTOM FUND」を合わせたような話から草薙素子をレギュラーから外してバトーとトグサのバディ(相棒)モノにしたような感じ。
まぁ、話の造りはきわめて単純。
表層部に関していえば、難しくも何ともない。
言い回しがこ難しい台詞がたくさんあるのは、押井監督お得意の演出というか目くらましだから、分からなきゃそのまま聞き流していけばいい。
ただ、攻殻機動隊特有のハッキングとかインナースペースの描写になると、慣れていないと戸惑うかもしれないけど、それでもかなり分かりやすく描かれていたとは思う。
話題になっている映像の美しさは、PRODUCTION I.Gなんだから、ある程度当たり前と思って観にいったけど、確かにすばらしかったし、できれば映画館の大スクリーンで観た方がいいと思う。
まぁ、自宅にホームシアター完備の方はそれで観るのも有りかもね。
あと、音楽は、川井憲次氏なので、押井ファンとしてはパトレイバーの頃からお馴染みだし、よりバージョンアップしていて、こちらもやはり映画館なりホームシアターなりの音響のいいところで耳にするのがいいと思いますね。
特にコーラスの厚みは、音響に左右されると思うし。

で、まぁ、表面的な感想はこのくらいにして……。
面白かったか?と問われれば、面白かったと答えますが、万人に受ける面白さではないような気がします。
特に攻殻機動隊に対してある程度前知識がある……というか、原作を知ってたり前作を知っていたりするならば尚の事……。
個人的には球体関節人形というものは嫌いじゃありません。
いや、人形全般嫌いじゃないんですけどね(フィギュアも含めて)。
でも、何と言うか、球体関節人形って独特でしょ?
ベルメールの人形を奇麗かと問われて奇麗だと答えれる人は少なくないと思うんですよね。
私自身奇麗とは……言いがたい。
けれど、奇麗だから好きになる訳でも引かれる訳でもないところが不思議なところで、ベルメールの人形の写真集など観ていると、心引かれるのも事実。
グロテスクとも思わないけれど、シュールだなとは思う訳で、そのシュールさを内包したものが全編に渡ってテーマのように出てくるというのが、奇妙さを引き立てる訳だし……。
映画の面白さが、それも多分テーマとして用意されているものの面白さが(実際、今回のテーマって押井監督が、分かりやすさという為に用意したものであって、別にそれをテーマだと思わなければ思わないで済むような話しという気もしなくはない)、万人に受けないだろうなと思うのは、やはりそういうものが前面に押し出されているからなのかなぁと、ほのかに思ったり……。
ただ、ハダリというセクサロイド……つまり、人間の性的欲望の為の愛玩用ガイノイドという意味合いの人形を表現するのに、そしてそこに埋め込まれたGHOSTのオリジナルである人間との対比として表現するのに、球体関節人形という形態はいいと思うのだけど、GHOSTを残してほぼ全身義体化されたバトー、電脳以外は生身のトグサ、義体も電脳も捨てて電子の海の中でPUPPET MASTER(人形使い)と融合する為にダイブした素子との対比という面ではどうなんだろう?
特にバトーとの……。
もちろん、球体関節人形という形は人工皮膚で覆われる前の形である訳で、その素の状態のガイノイドは、通常、(INOCENCEの世界の中では)人目にさらされる訳ではないのでしょうけどね……。
でも、映画を観ている人間には常に晒されている。
その矛盾。
人間である事の意味、人形に限定される事の意味が、GHOSTを持っているかいないかならば、今回のハダリはどちらになるのでしょうか?
GHOSTがオリジナルかコピーかによって違いがあるのか?
それとも脳と脊髄をオリジナルとして保持している事のみが人間なのか……。
もしそこだけが問題ならば、ハダリは人形、バトーは人間。
けれど、それらを捨ててデータという形に姿を変えた素子は何なんでしょう?
そして……、素子が入り込んだハダリとそれ以外のハダリの違い……。
全てが曖昧で境界がないはずなんだけれど、厳然たる境界を引こうとするのは防衛本能みたいなものなんでしょうか?
こんな風に突き詰めて考えていく事は、INNOCENCEではかなりの部分受け手にゆだねられている気がします。
多分、押井監督は押井監督なりの表現として描いているし彼の中には彼自身の答えがあるのだろうけど、それは誰かと答えを共有化する事じゃないのかもしれない。
攻殻機動隊の中で描き続けられる電脳化による情報の外部記憶化……。
その外部記憶そのものを社会といってもいいのだろうけれど、それは情報のグローバルな共有化である訳で、それとは全く反対方向にこの映画そのものの答えの非共有化があるんじゃないかなと思いました。
もちろん、攻殻機動隊の中で描かれる電脳を核とした外部記憶化というのは行き着く先までいったものであるのでしょうけど、今現在のリアルに生活している私たちだって、インターネットや携帯やテレビやラジオ……そんなもので情報の外部記憶化している訳で、そういうものに対するスタンスによっても、この映画に対する自分の中の答えが変わってくるのかもしれないという気もします。
そういう意味で、この映画の面白さは人それぞれだし、全く面白いと感じられない人がいても、あまりにも当然だろうなと思います。
もちろん、突き詰めて考えないで、映像美と音楽と表面上のストーリーだけを楽しむという楽しみ方ならば、おしなべて面白いかもしれませんけど。
個人的に私は、アニメの攻殻機動隊では(映画とテレビどちらも)、原作と違い「性的」なモノをメインキャスト以外のところでしか表現していない事に対する不満というのが根底にあるのですが、今回は「性的」なものではないけれど、官能というものは受け手によっては感じるかもしれないですね。
バトーと犬との関わり、素子との関係、素子の入り込んだハダリ……。
そういうものから仄かに立ちのぼってくるものを、官能と理解しうるなら……。
でも、個人的には原作の電脳FUCK(脳内SEXと言ってもいいけど、原作者が電脳FUCKって書いてるからそう書きます)とその触媒としての素子(の副業)みたいな表現は有りだと思うんですけどね。
ただ、そうなるとテレビではちょっと無理なのかもしれませんが……。
でも、COOLなだけの素子は格好はいいけれど、PUPPET MASTERと融合してしまう理由付けが希薄になる気がします。
男性の場合は自分が女なので分かりませんが、女性としていうならば、電脳FUCKが女性の場合同性間でおこなわれるというのは、当然と思います。
異性と肌を合わせる事で感じるぬくもりとか、生殖という子づくりの意味合いでならば異性は必要だと思うんだけど、潔く快感を得る為だけなら電脳FUCKまで行き着かないでも、快感を司るイメージだけで全然OKだし、攻殻機動隊原作の設定のように体感触媒としての素子のような存在がある方が、より質の高い快感んが得られるという設定であるならば、同じ身体的特徴を持っている同性間でおこなわれるのは当然である訳ですしね。
そういうものを受け入れていて、更に異性の大人の関係である彼氏(バトーじゃないよ)もいる素子だからこそ、プログラムの隙間に概念としてのみ存在するPUPPET MASTERと融合できるのだと、私は思うんです。
もちろん前作の「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」での素子の描き方とPUPPET MASTERとの融合は不自然ではなかったけれど、それをふまえてだとするならば「INNOCENCE」において、セクサロイドに入り込んでまでバトーを助ける為にやってくるという絆の強さというのは、ありなのかもしれません。
しかし、私は、そこが納得し難いものだったりもするのですけどね。
納得できる要素は分かる。
けれど、うまく自分の中で消化できない……。
原作の素子のイメージに引きずられているだけなのかもしれないけれど、前作が不自然ではなかったけどそこにいたるまでの過程が薄いから、反対に今作でバトーとの絆の深さを示された時に、脳内補完しうるのだと思う。
けれど、だからこそその脳内補完そのものに納得できない思いを抱くのだとも思う。

でも、色々考えたけど、結局はこの映画は、深く考えようとした場合、自分自身のインナースペースに帰結するんでしょうね……。
しかし、攻殻機動隊なりINNOCENCEなりが海外で受ける訳がよく分かるよ。
だって、キリスト教だったりイスラムだったりという社会全体に根付いている宗教観から無縁の土地でしか作れない話だもんね。

そういえば、相変わらずフチコマ(テレビシリーズではタチコマ)は出てこなかったな。